松浦俊介Top「コラム」ダイジェスト>平成16年11月9日(火)

震災ボランティア(新潟県中越地震)



11月2日(火)に出発した新潟県中越地震でのボランティア。

ワゴン車にテントや食料などの支援物資を持って
細野豪志代議士と秘書の田原さん、
浪人中?の岸君と一緒に向かう。

関越自動車道は途中寸断されていたので、
上信越道と北陸道通ってを柏崎まで行き、
そこから小千谷市へ向かった。
柏崎までは何ともなかったが、
小千谷市の隣町の小国町から
道路は波打ち、路肩は崩れ、
電柱は斜めになっている。

マンホールが竹の子のように「にょきっ」と出ていたり、
陥没しているところがあり、
ポールなどを目印に置いてあった。

小千谷市に着いたのはその日の真夜中。
商店街を通っていったが、ところどころ
1階がぺしゃんこになっているお店や家があるのが
わかった。

避難所となっている県立小千谷高校のグランドに到着。
とりあえず、持って行ったテントの中で寝た。



早朝に起きるとバイクで駆けつけた富士の神田さんと合流し、
小千谷市のボランティアセンターへ向かう。

3日は旗日ということもあり、ボランティアセンターは
ボランティアでごった返していた。

センターはなぜかアートトラックの全国組織「哥麿会」の
イベント用テントが数張あり、ボランティアの受付窓口になっていた。

後で知ったのだが、哥麿会は福祉活動もやっているという。
バイク支援隊もたくさんいて、
ハーレーから、オフロードバイク、
また暴走族と思われるような格好をしている者も
集まっていた。

ボランティア受付は、登録のためかエクセル入力のできる方の
ボランティアの募集もしていた。

ボランティアセンターの横は、テレビでよく見た
小千谷市総合体育館があった。

路上には車が停まり、
阪神大震災の被災者の方がそばを路上で振舞う
ボランティアをしていた。

ボランティアセンターにいた時、
細野さんが知り合いの親戚の親戚だがの人が
川口町で家が全壊して、その片づけの手伝いの
話がきたので、工具を買って川口町へ向かう。

幹線道路の国道17号を南へ向かう。
17号は崩壊し、途中寸断したしまったのだが、
迂回路を早急に作って通行できるようになっていた。

道路沿いの家は小千谷市中心部と同じように
ぺしゃんこになっている家を多数見たが、
崖沿いにある家で2階建ての家が、
半分に引きちぎられているものや
落っこちているのを見た。

川口町は、震度7を記録した地域で
小千谷市より被害がひどいように思えた。

国道からわき道に入り、少し山を登って
今にも倒れてきそうな傾いた家を過ぎた
向こうに全壊した家が見えた。

農家をやっているおじいさんのうちで
家の片づけを手伝った。

おじいさんの話では、稲刈りはもう済んで
納屋に新米があるのだが、
ぺしゃんこになってしまって
取り出せないらしい。

魚沼産で有名な田んぼも
畦が崩れたり、田んぼ自体が斜めになったりして
これから雪が降り春になってから
改修しても田植えまでに間に合わないと
言っていた。

1階がぺしゃんこになった家を見ながら
「お父さん、よく助かりましたね」
と聞くと、本人は地震のとき、
風呂上りでまさに家の1階にいたという。

しかしながら、一気に倒れたのではなく、
3回の地震で徐々に倒れていったらしい。

午後、川口町を後にして
小千谷高校に戻った。

小千谷高校では、中越元気村という
テントや寝袋を無料で配っているボランティア団体があり、
そこで物資の仕分けを手伝った。

翌日の4日からは小千谷高校に民主党のテントが建ち、
物資が揃ってきたので避難所の皆さんのバックアップを
していった。

小千谷高校は、体育館に塩谷地区という山古志村の隣の
小千谷市の地区が丸ごと100世帯ほど300人近い人が
避難していた。

また、グランドには自衛隊のテントが60張あり、
半分ほどのテントに100人近い人が住んでいた。
テント生活をしている人は、近所の市街地などで
家が倒壊するなどして住めなくなった人が
住んでいた。

体育館の被災者は、自衛隊が1日3食毎回トラックで
運んできて、物資もかなり満たされていた。
しかしながら、テント生活の人達は、
そうした支援はなかった。

民主党のテントには本部や全国の県連などから送られた
寝具、食料、防寒具、日用品などが揃っていた。

こうした物資は、主にテント生活をしている方に
大変好評だった。

食料なんて自衛隊が運んでくるからいらないだろうと
当初思っていたが、テント生活をしている方たちには、
大変重要なものになっていた。

体育館の被災者は食料が余って棄てられているという話を
聞いて、同じ被災者なのにと疑問に感じることがあった。

ただ、体育館での生活はプライバシーがなく、
一人のスペースも1畳あるかないかぐらいで、
自分はイビキがうるさいからと自ら
テント生活を選ぶ人もいたようだ。

民主党のテントには、本部からマットレスが
毎日大量に運び込まれていた。

このマットレスがテント生活をしている被災者に
とって一番のヒット商品になった。

その他、たくさんの物資があるのだが、
被災者の方に知ってもらうために
チラシを作り、テントを周って説明した。

昼間は、みなさん仕事に行ったりしているので、
夜、巡回した。
不在のテントには、チラシを投げ込んでいった。

そうしているうちに、民主党のテントには
多くの被災者の方が足を運んでくれた。
こちらで用意していない物資は、後から仕入れるようにした。

一番はけた物資は、マットレス、毛布、防寒具、
女性用下着、缶詰やカップめんなど食料品だった。

新潟に一緒に行った仲間は、細野さんと秘書の田原さん、
大学受験を控えた岸君、私、そしてバイクで駆けつけた
富士の神田さん。

細野さんは翌日の3日に帰り、岸君と神田さんも4日に帰った。

小千谷に来た2〜3日は、水も復旧せず、
顔も洗わない、風呂も当然入らない、
食器は洗えない、歯は磨いたがミネラルウォーターを
一口分使う程度だった。

また、4日にどしゃぶりの雨が降ったので
それまで寝ていたドーム型のテントは
一面びしょびしょになってしまったので、
でかすぎて寒風が入ってくるが
パレットとコンパネのひいた
物資の保管してある民主党のテントに寝た。

小千谷は、晴れると昼間はTシャツでいても
暑いくらいの暖かい陽気だが、
日没とともに急激に寒くなる。

4日の夜からは、静岡から行った仲間は私と田原さんだけになった。
この2人以外に国会議員を志し、
神戸の民主党の市村代議士の下で、
ボランティアスタッフをしている
早稲田大学政治経済学部政治学科の井上君と
特に政治に興味があるわけではないが、彼に連れられてきた
高校時代の同級生、東京大学で建築の勉強をしているという
水盛君の4人になった。

この4人で軌道に乗せ小千谷高校に避難している方、
特にテント生活をしている方たちの
バックアップをしていくことになった。

小千谷市は人口4万1千人ほどの都市で
清水町より1万人くらい多い。
その小千谷市では、私たちが行った当初は
120ヶ所ほどの避難所に1万人くらいの住民が
避難していた。

避難所は、学校や体育館や公会堂などの公共の施設は
もちろん、病院、ジャスコなどの民間の駐車場、
はては大きな敷地の個人宅に数十人ほど
避難している事例もあった。

小千谷市は震度6強の地震が起きたところだが、
清水町も東海地震が起きた際には
同じような揺れがくると思われる。

そうした意味でも、清水町で起きた場合のイメージが
しやすくなった。
清水町でも町民が全員、町内7箇所の広域避難所に避難するのではなく、
それぞれ、近所の広場や駐車場などに避難することになるだろう。

小千谷市を見て、こうしたさまざまに点在した避難所に
きめ細かに行政だけで対応しきれているように思えなかった。
また、市内に1箇所だけのボランティアセンターについても同様。

少なくとも私のいた小千谷高校は
テレビでよく出ていた総合体育館に次いで大きな避難所だが、
テント暮らしの被災者に対応していたようには思えなかった。

細野さんは2ヶ月間、田原さんは、半月ほど神戸の震災にも
入っていたらしいが、ボランティア難民みたいな
行き場のないボランティアがけっこういたという。
ボランティアセンターを見たときも
そんな風に感じた。

被災者の声と物資やボランティアをどれだけつなげられるか、
ボランティアセンターや行政がこうしたハブ(車軸)になるのだろうが、
このハブはいくつあってもいいような気がした。

6日間の中でいろいろなボランティアの人を見た。

小千谷高校では先述したが、テントを配っていた「中越元気村」。
その「中越元気村」のテントの横では、
「被災動物支援所」という犬や猫の餌などを
無料で配っているボランティア団体のテントがあった。


上/中越元気村テント   下/被災動物支援所


小千谷高校では、体育館に信州大学の医学部の
先生と学生が詰めており、被災者の医療の面で
ケアをしていた。
また、被災者の方にマッサージをする
マッサージボランティアの方もいた。

その他、小千谷高校では埼玉県の腕章をした
たぶん職員の方が来ていて仮設トイレの掃除を
していたり、車の誘導などのボランティアをしていた。

他の行政関係では、小千谷市内では神奈川県警の
パトカーや警察官がいて、交通整理などしたり
市内の要所に詰めていた。

小千谷高校ではこのほか、立教大学など大学ごと
募集して集まった学生ボランティアがいたり、
渋谷など都心部、繁華街で防犯パトロールなどを行っている
NPO法人日本ガーディアンエンジェルスの方などがいた。
ガーディアンエンジェルスは、赤いジャンパーを
着ているのですぐわかる。

また、民主党のテントの横では、
3日の夜には宮城県の鍼灸師の団体がシチューを作ったり、
4日の夜には長野県の戸隠そば協会みたいな団体が
そばを振舞ったりしていた。

1週間弱いた中でいろんなボランティアの方と会ったが、
中でもやはり最強・最高のプロのボランティア団体、
志願兵・義勇兵というボランティアの語源を地で行く
自衛隊という組織を抜きにして被災地を語ることは
できないだろう。

私が接した自衛隊の仕事は、被災者のためにテントを張る。
食事を用意する。仮設お風呂の設置・管理をする。
などあり、お風呂場では女性自衛官やまだ10代と思われる
若い男性自衛官が働いていていた。
お風呂は、水は外からタンクローリーみたいので
運んできてその場で沸かす装置があり、
ホースでパイプの骨組みに布を被せた
お風呂に注ぎ、水などを足しながら温度調整していた。
女性の風呂の入口には、なぜか「弘法の湯」という
赤い暖簾がかけてあった。

食事は、避難所の人数、その日の被災者の数によって
きっちり計算して作ってくるという。


こうした自衛隊のお風呂支援や食事支援も大変ありがたいものであるが、
私が見た一番最強の自衛隊は、なんと市の配送センターにいた。

市の配送センターには、全国から集まった支援物資が集積されており、
私も被災者からの要望で避難所にない物資は
配送センターに行って仕入れてきていた。

配送センターは、市の管理だが市の職員はそこにいるくらいで
実際に動いているのは自衛隊員だった。

この配送センターに番長みたいな自衛官がいた。
階級的にどれくらいの人かは分からないが、
年齢的には私とさして変わらないくらいに見えた。
その番長自衛官は、「こんなのもありますよ」みたいに
いろいろ気を使って保管してある物資を紹介しながら、
ドスの利いた声で部下の自衛隊員を的確に指示を出していた。

配送センターへ行くと欲しい物資を用紙にサイズや数量も含めて
記入し、自衛官に渡すのだが、
大量に山積みされた物資からあっという間に注文した品物が集まり、
ちょっとでも搬出に遅いものががあると
その番長自衛官の
「おい!誰かハンテン探しているのか!」と
怒っているわけではないのだが、怒号のような声が
施設内に響き渡る。
それに対して部下が
「はい!やっております!」と間髪いれずに返事がくる。

配送センターは、普通の体育館くらいの大きさに
膨大な物資が山積みになっている。
自衛隊の統率力、組織力、機動性、
物資の仕分け能力がないとこの仕事はできないと
つくづく思った。

その配送センターの番長みたいなリーダーは、
まさに戦場で部下を統率する上官の風格、
オーラがみなぎり、どんな困難な状況が訪れても動じず、
突破口を見出してくれそうな心の強さと判断力、
決断力を感じた。
男が戦場で命を預けられるリーダーとは、
こういう人間だと妙に納得した。

余談だが、自衛官に変な支援物資とかないですかね?
と聞いたら、英語のテープやガイドブックの
「地球の歩き方」などもあったという。
被災者に英語の勉強やいっそ海外にでも
脱出しろということだろうか?
まったくもって理解に苦しむ。

小千谷市内では板妻の名前の入ったトラックも
何度か見た。静岡からも多くの自衛隊員が
新潟に入っているだろう。

小千谷高校の上空には四六時中自衛隊も含め、
ヘリコプターが飛んでいた。



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