松浦俊介Top「コラム」ダイジェスト>平成17年4月12日(火)

清水町の防空壕



先日、鹿児島で中学生が防空壕で
一酸化炭素中毒になって亡くなる事件が起きた。

防空壕なんて60年前の遺物で現代の中学生が
亡くなるのも悲惨な話であるが、
県内にも200カ所くらいあるという。

では清水町ではどうかという話だが、
今日、役場の学校教育課へ行って聞いてきたら、
外原に1カ所あるので南中・南小には
近づかないように指導してあるという。

私が子どもの頃、今は塞がれてるけど
長沢にも防空壕のような
横穴が黄瀬川の近くにあった。

長沢と外原には、昔、海軍の施設があった。
長沢には、横須賀海軍工作学校沼津分校。
外原には、海軍施設本部実験所があった。

長沢の長老に聞くと工作学校の道路で戦車みたいのが
走っていたという。

先日行った静岡医療センターの内覧会では、
院長さんが、静岡医療センター(旧・国立東静病院)の前身は、
海軍病院だと言っていた。

この長沢と外原の海軍施設は、
清水町史によると当初は、沼津港湾付近に作られる予定だった。
沼津市には、すでに海軍工廠(こうしょう)、
第二海軍技術廠音響兵器部など
海軍の電波兵器生産の中心、海軍音響兵器研究の中枢があった。

しかし、港湾まで海軍に占有されることに驚いた
時の沼津市の正副議長が海軍に陳情交渉した結果、
清水村につくられることになったという。

以下、清水町史【通史編】下巻 引用

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用地買収にあたっては関係者に対して、
1944(昭和19)年1月19日付けで村役場から通知が出された。
22日に印鑑持参で清水村国民学校に集合せよとの内容で、
都合の悪い場合には責任ある代理者の出席が求められた。
「まわりに憲兵がいた。地図を示して
“意義のある者は申し出よ”と言われたって
誰もモノが言える空気じゃなかった。」という状態で、
半ば強制的に買収が行われたのである。
山は、1反が240円、畑は400円、現金ではなく国債で支払われた。
当時は、外原には五軒が住んでおり、皆徳倉に強制的に移転させられた
(外原区・20周年記念誌編集委員会『外原区20周年記念誌』1988年)。

備考:1反=約1000平方m

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当時の清水村の皆さん、泣く泣く軍に土地を接収され、
沼津市にできる予定だった海軍施設が外原と長沢にできた。
この問題で村は、混乱したようだ。

はて・・、現在においても何か考えさせられるな。



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