先日、鹿児島で中学生が防空壕で 一酸化炭素中毒になって亡くなる事件が起きた。
防空壕なんて60年前の遺物で現代の中学生が 亡くなるのも悲惨な話であるが、 県内にも200カ所くらいあるという。
では清水町ではどうかという話だが、 今日、役場の学校教育課へ行って聞いてきたら、 外原に1カ所あるので南中・南小には 近づかないように指導してあるという。
私が子どもの頃、今は塞がれてるけど 長沢にも防空壕のような 横穴が黄瀬川の近くにあった。
長沢と外原には、昔、海軍の施設があった。 長沢には、横須賀海軍工作学校沼津分校。 外原には、海軍施設本部実験所があった。
長沢の長老に聞くと工作学校の道路で戦車みたいのが 走っていたという。
先日行った静岡医療センターの内覧会では、 院長さんが、静岡医療センター(旧・国立東静病院)の前身は、 海軍病院だと言っていた。
この長沢と外原の海軍施設は、 清水町史によると当初は、沼津港湾付近に作られる予定だった。 沼津市には、すでに海軍工廠(こうしょう)、 第二海軍技術廠音響兵器部など 海軍の電波兵器生産の中心、海軍音響兵器研究の中枢があった。
しかし、港湾まで海軍に占有されることに驚いた 時の沼津市の正副議長が海軍に陳情交渉した結果、 清水村につくられることになったという。
以下、清水町史【通史編】下巻 引用
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用地買収にあたっては関係者に対して、 1944(昭和19)年1月19日付けで村役場から通知が出された。 22日に印鑑持参で清水村国民学校に集合せよとの内容で、 都合の悪い場合には責任ある代理者の出席が求められた。 「まわりに憲兵がいた。地図を示して “意義のある者は申し出よ”と言われたって 誰もモノが言える空気じゃなかった。」という状態で、 半ば強制的に買収が行われたのである。 山は、1反が240円、畑は400円、現金ではなく国債で支払われた。 当時は、外原には五軒が住んでおり、皆徳倉に強制的に移転させられた (外原区・20周年記念誌編集委員会『外原区20周年記念誌』1988年)。
備考:1反=約1000平方m
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当時の清水村の皆さん、泣く泣く軍に土地を接収され、 沼津市にできる予定だった海軍施設が外原と長沢にできた。 この問題で村は、混乱したようだ。
はて・・、現在においても何か考えさせられるな。
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