松浦俊介Top「コラム」ダイジェスト>平成17年4月18日(月)

「義経」と「対面石」



昨日の大河ドラマ「義経」。
大河ドラマは、毎回見ているわけではないが、
昨日は、さすがに見た。

ていうか2年前からこの日は待っていた。
黄瀬川での頼朝と義経の初の兄弟対面。
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=321783&log=20030915

番組最後の史跡紹介みたいなコーナーでは、
八幡神社にある対面石が紹介され、
黄瀬川大橋から黄瀬川橋を撮った映像が
冒頭に流れた。

大河ドラマで清水町が紹介されるのは、
もう最初で最後だろう。

八幡神社にある対面石は、
二人が腰掛けた石と伝承されている。

しかし、対面石の話はもちろん、
頼朝と義経が本当に黄瀬川付近で出会ったのかどうかも、
事実かどうかわからない。

清水町史(通史編・上巻)を読むと
「吾妻鏡」がこの「対面石」の所以に因むものとされているが、
この「吾妻鏡」の所以自体、脚色された一篇のフィクションで
ある可能性が高いと記述されている。

「吾妻鏡」によると1180年10月21日に頼朝と義経が
黄瀬川宿で出会っていることになっているが、
その後、義経が頼朝に従軍した形跡が全くなく、
次に出てくるのが1181年7月20日の
鎌倉での鶴岡八幡宮の棟上げ式で
頼朝が義経に馬を引くように命じた場面。

では、なぜ「吾妻鏡」の編者が黄瀬川を
兄弟再会の地に選んだかだが、
この黄瀬川にあった黄瀬川宿が
当時、歴史的にも地理的にも重要な要所・宿場町であったからのようだ。

黄瀬川宿は、当時駿河湾より海路で物資が集積され、
馬の調達も含め、必要な軍事物資を調達できたようだ。
また黄瀬川宿では、京都方、鎌倉方の情報が交差するところで
当時の資料にもたびたび登場し、頼朝も何度も立ち寄っているようである。

黄瀬川宿には、物資と情報と人が集まり、
歓楽街となり遊女もいたようである。

1180年8月17日の頼朝挙兵も、伊豆国目代山木兼隆の郎従たちの多くが、
三島大社の神事に参加し、その帰りに黄瀬川宿の遊女と
遊んでいるところでの不意をつくものだったようだ。

ちなみに頼朝も黄瀬川宿の遊女と遊んでいたようである。

こうした東海道の中でも当時、重要な位置にあった黄瀬川宿は、
頼朝と義経が感動的対面をする地としてふさわしいと
「吾妻鏡」の編者が思ったのかもしれない。
(ちなみに当時の東海道は箱根路でなく足柄路である)

尚、黄瀬川宿とは現在の黄瀬川西岸の沼津市大岡木瀬川地区であったと
推定されている。

清水町側に宿場があったかどうかは疑わしい。
ただ、私が以前、東海道400年祭で
黄瀬川宿のことでいろんな人の話を聞いた中では、
「川の両側に宿場ができることはある」とか、
黄瀬川は流れが変わった形跡があり、
旧国一と旧道がぶつかる「きせがわ病院」
付近を流れていたこともあるそうだ。

とまぁ、対面石も頼朝と義経が黄瀬川で会ったかどうかも、
かなり胡散臭いのであるが、私はそんなことよりも、
いつの時代に誰が思いついたのかわからないが
この腰をかけるのにちょうどいい二つの石を
頼朝・義経の対面石とした昔のこの地域の方の発想と着眼点に感激だ。

やったもん勝ちである。
軽いノリで作ったのかもしれないのに、
その後、兄弟の感動的対面の場として
こうして史跡並みの扱いで全国に紹介されてしまったのだ。

町づくり的発想で考えれば、
この頼朝・義経出会いの地の伝承を生かして
感動的出会いをする場として
清水町を売り出すことはいいかもしれない。

それは、巌流島が武蔵と小次郎の決闘をした地で有名なのと
同じぐらいのインパクトを与えられるかもしれない。

猪木とマサ斉藤が巌流島で決闘をしたが、
同じような企画を清水町でしたらどうだ。

訳ありの兄弟を清水町で対面させる。
西武グループの堤兄弟とかどうかな。

同じ異母兄弟なら日歯連ヤミ献金1億円の橋本龍太郎(兄だが非嫡子)と
高知県知事の橋本大二郎(嫡子)もいいな。

どうでしょ。ちょっと訳ありすぎだな。

(付記.1)
清水町のホームページに対面石に関するものがない。
清水町公民館のページにもないようだ。
ありゃ〜、せっかく大河ドラマでやったのに・・。

でも八幡神社のホームページを発見した。
しかもかなり内容が濃い。
もちろん対面石の記述もある。
勝又宮司やりますね。

◎八幡神社
http://www.inarijinja.com/yahata/
「八幡神社由来」に対面石の写真。

(付記.2)
ドラマでは、義経が頼朝と黄瀬川で出会ってから、
富士川の戦いがあったように構成されていたが、
「吾妻鏡」では逆で、富士川の戦いの翌日に
黄瀬川で会うことになっている。

(付記.3)
対面石は、私の子どもの頃は、神社の北側の旧国一沿いにあったが、
拡幅で今の境内に来たと記憶する。
昔は、さらに北側にあったような話も聞いた。



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