松浦俊介Top「コラム」ダイジェスト>平成17年5月1日(日)

ベトナム戦争終結30周年



昨日の4月30日でベトナム戦争終結30周年だという。

私は31歳だから、生まれた時は、また戦争中で
17度線を境に北ベトナム軍と
アメリカ傀儡政権の南ベトナム軍が
壮絶な戦闘を繰り返していた。

1975年4月30日、南ベトナム政府の要人が
アメリカ軍のヘリコプターで脱出。
同日午前にズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言し、
その後北ベトナム軍が大統領官邸に突入、
アメリカの支援も首都も失った南ベトナムは遂に崩壊した。

私が物心ついたころにはもうベトナム戦争は終わっていた。
でも、子どもの頃、ニュースで報道される南ベトナムの
ボートピープルの人達や、二重胎児で生まれたベトちゃんドクちゃん、
そして「プラトーン」や「ハンバーガー・ヒル」といった
ベトナム戦争映画の影響で
私の世代の人間でもベトナム戦争というものを
自然と意識して育った。

私は、ベトナムに2度行っている。
1997年と98年。
北部の首都ハノイ、戦闘の激しかった中部のフエやダナン、
そして当時サイゴンと呼ばれていた南部のホーチミンシティと
見て回った。

スタディツアーという性格上、ベトナム戦争が終わって
20年が過ぎていたが、その影響をもろに感じた。

首都ハノイの道路はところどころ大きな穴が空いていた。
通訳の人は北爆の名残だと言っていた。

「平和村」という障害児施設を訪問した。
多くの障害児に会ったが、ここに入れない
ハノイ郊外の子ども達の家庭にも訪問した。

中部のフエからカンボジア国境近くのホーチミンルートの
あった山間部にも行った。

北爆が終わって25年がたつのにまだ、山はハゲていた。
枯れ葉剤の影響を研究している現地の大学の先生が
言っていたが、この辺の山の土壌に生息する生物は
普通の山の30%ほどしかいないと言っていた。

ホーチミンシティ北部のクチトンネルという
ベトコンの地下要塞も見てきた。

アリの巣のように縦横無尽にトンネルが続き、
2層、3層、4層構造となっていて、住居、医務室、
参謀室、会議室、武器庫、敵の侵入を阻むトラップなどある。
でも、その出入り口は誰にも分からないように
なっている。
トンネルは、全長250kmにもなり、メコン川にも通じている。

「ベトコンはどこにでもいるが、どこにもいない」と
アメリカ兵に言わしめたトンネルだ。

今は観光地になっていて、当時このトンネルに苦しめられた
アメリカ兵も訪れている。

8年前にベトナムスタディツアーに参加した後、
ベトナムの障害児の描いた絵画展を当時住んでいた
東京・中野区の文化センターで2度開催した。

その時、いろんな人が来て話を聞いた。
ベトナム戦争当時、日本の海運会社に勤めていた人が
私に言った。
「私の会社は、極秘にベトナム戦争で使用するアメリカ軍の武器・弾薬などの軍事物資を日本から船で運んでいた。ベトナム戦争に荷担した人間として非常に自責の念にかられている」

ベトナム戦争は、過去の戦争だろうか。
私が訪問した7〜8年前でも、すでに3代にわたって
障害のある子が生まれていた。

ベトナムは100万人の犠牲者をだし、今なお国土の荒廃、
ダイオキシン等による戦争の後遺症、
そして北と南の問題をまだ抱えている。

それでも小国のベトナムが超大国アメリカを追い出し、
民族自決の大儀と尊厳を世界に示した歴史的事実は
決して色あせることはないだろう。



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