松浦俊介Top>「コラム」ダイジェスト>平成18年9月23日(土)
『石橋湛山の思想を語りつぐ』
今日は、石橋湛山の話を聞く。 講師は、小松優香さんで、日本大学国際関係学部、 同大学大学院国際関係研究科博士課程満期修了し、 外務省の外郭団体・(社)太平洋諸島地域研究所研究員等をしている。 演題は、『石橋湛山の思想を語りつぐ』である。 石橋湛山は、東京生まれの山梨県甲府市育ちだが、 旧静岡2区選出(住所は長泉町下土狩)の衆議院議員となり、 内閣総理大臣となった。 首相在任期間は、わずか 1956年12月〜翌年2月までの2ヶ月間で、 真冬にも関わらず、積極的に有権者の話を聞くべく各地を回ったために 肺炎を起こしたからだという。 過去、静岡県選出の国会議員で総理大臣になったのは、 石橋湛山だけだ。 以前、細野の講演会で渡部恒三・国会対策委員長の話を 聞いたときに、渡部さんが石橋湛山の秘書をしていたと聞いて驚いた。 http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=321783&log=20060520 石橋湛山は、戦前は、東洋経済新報社で編集・記者をし、 社長に就任するなどエコノミストで 加工貿易立国論を唱え満州放棄を主張するなど、 戦後、日本社会党からも総選挙の出馬を依頼された こともあるリベラリストである。 早稲田大学で田中王道に師事して個人主義・自由主義の影響を受けて、 女性の地位向上のため良妻賢母主義を否定し、 国民主権を訴え、民族自決と植民地政策を批判し、 警察力以上の軍隊は要らないと軍備拡張を戒め、 小日本主義を訴えた。 第一次大戦で日本は中国の青島を占領したが、 青島を占領することの貿易による経済効果などを 数値化してデメリットの大きさを訴えた。 戦後の首相辞任後は、 1959年に中国を訪問し、石橋・周共同声明を発表し、 1960年には日ソ協会会長に就任し、 1961年に日中米ソ平和同盟案を発表している。 日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど 自民党内ハト派の重鎮として活躍した。 1963年、79歳の時に総選挙で落選し1973年に89歳で亡くなっている。 自民党の総裁は、安倍さんになった。 石橋湛山が生きていたら、安倍さんに何て言うかね? |
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