松浦俊介Top「議員活動・議会・町政報告」>平成17年5月4日(水)

沼津市・三島市・清水町「コンビナート進出計画」



合併問題を考えるにあたって、清水町・清水村の歴史について
もっと深く知る必要があると感じた。

他の先輩議員なんかは清水町の生き字引みたいな方も
いるが、特に私なんか、30年そこそこしか生きていない。

私もいろいろ聞きかじっていることはあるが、
ここで町史を引用・参照しながら、
とりあえずコンビナート問題から町制施行、
昭和41年(1966年)沼津市清水町合併協議会設置、
そして頓挫していく流れを確認していこう。

まず、沼津市・三島市・清水町の2市1町に
立地される予定だったコンビナート進出計画から。

コンビナート進出計画は、1960年代の高度経済成長の
流れの中で、静岡県も県民所得倍増を謳い、
第2次産業の立地・育成をはかる方針を出した。

1961年1月、県は石油化学コンビナート建設に向けて、
東部開発推進事務所を沼津市に開設。

アラビア石油を沼津市に、住友化学を清水町に、
昭和電工を三島市に、東京電力火力発電所を伊豆長岡町にという
計画ができたが、自治体間の足並みが揃わず立ち消えになった。

しかし、第2次コンビナート進出計画を
1963年12月に県が東部地区広域都市連絡協議会の場で
発表した。

これを受けて、1964年1月、富士石油、住友化学、東京電力の
三社は次のような計画を発表した。

富士石油会社が三島市中郷地区へ165万平方m、
15万バレル/日、用水34万立方m/日、
原油受け入れ地をは沼津市内浦、出荷地は牛臥港に、
住友化学が2市1町に約132万平方m、エチレン10万トン/年、
第1期用水30万立方m/日、
東京電力が牛臥海岸を埋め立て、15.5万平方m、
最終出力140万kWの火力発電所という四日市を上回る規模。

富士石油と住友化学が必要とした水が、
併せて1日64万トンだ。

住友化学は、現在の卸団地周辺に立地する計画で
富士石油とともにそれぞれ柿田川から用水路を引く計画になっている。

国土交通省沼津河川国道事務所のHPを見ると
1963年で柿田川の湧水量が年平均日量が130万トンだ。
(現在が約110万トン)
というと、柿田川の水半分使ってしまう計算だ。

この計画が、柿田川抜きには考えられないものであることが
よくわかる。
もしできていたら、柿田川の様相も大きく変わっていただろう。

火力発電所は140万kWという。
原発1基分が110万kWぐらいだから、それより多い。

コンビナート進出計画は、2市1町とも
反対の立場の市民団体が結成されるなどし、
連携をとりながら、最終的には、現在の通りである。

では、各自治体でどのような動きがあったか、
賛成・反対の動きを意識しながら、
時系列的に簡単にまとめていこう。

【三島市の動き】

三島市であるが、町史を読む限り、
コンビナート推進に向けての大きな動きはなく、
1963年12月から「石油コンビナート対策市民懇談会」、
(翌月より「石油コンビナート反対三島市民協議会」へ改称)が
発足する。

この団体は、一部の市議会議員を中心としたグループに
ローカル紙の「三島民報」、市民団体の「母の会」、「湧水を守る会」
などが加わって結成され、武蔵大学の教授を招いて
「行政合併と石油コンビナート問題」と題して
講演会を開催したり、四日市にへバスで現地視察に何度も行くなどし、
喘息の子どもがいたり、洗濯物が外へ干せない状況を
自分たちの目で確かめる。

コンビナート見学は、沼津市や清水町でも
何人か集まって車や団体ごとにバスで
四日市・徳山・水島などの視察に出かけ、
その後、報告会などが行われている。

1964(昭和39)年5月23日には三島市公会堂に1500人が集まり、
石油コンビナート阻止三島市民大会が開かれる。

28団体(町内会連合会、婦人連盟、中郷地区諸団体、商工会議所、
労組、商店街、2市1町反対住民協、子ども会連絡協議会など)の
決意表明が行われ、この席で長谷川市長は市民を前に、
31町内連合会と婦人連盟によるアンケートで市民の80数%の反対、
各団体からの陳情、地元の遺伝研による松村調査団の報告などに触れて、
「もはやこれ以上市民を不安と焦燥の場におくことはできない」と
決意表明した。

これを受けて三島市議会は6月18日、全会一致でコンビナート反対を決議した。

こうした三島市のコンビナート反対への流れは、
1958年の東洋レーヨン三島工場の誘致が原因と考えられる
三島市の湧水の枯渇から、大型工場の進出と生活環境との深い関連性を
痛感させられていたことと、
戦後直後の三島庶民大学で培われた
「自分たちの目で確かめよう」という学習集団創出の背景が、
連続していることがあげられる。

三島市の姿勢は、沼津市や清水町にも大きな影響を与える。

【沼津市の動き】

沼津市は、1964年3月に連合自治会、青年団、PTA連絡協議会、
水産加工業等職業団体、文化市民団体、地区労や政党等の15団体で
石油コンビナート反対沼津市民協議会が結成される。

6月16日には5000人を超える人々が参集する中、沼津市議会は
議員提案による石油コンビナート建設計画に反対する
決議を採択する。

ところが三島市への進出を拒否された富士石油が6月25日に
新たな立地場所として愛鷹と片浜地区を選定して
申し入れをしてきた。

これに賛成する動きとして
この機会に土地を売ってしまいたい農家が多くいて、
8月12日に市長も誘致表明を行い、
県建設業協会沼津支部が誘致賛成の声明書を発表、
29日には商工会議所、建設業協会、片浜愛鷹農協など6団体に
県議会議員28人が参加し、約2000人を集めて石油コンビナート誘致賛成市民大会が
開催され、自動車180台で清水町、片浜、愛鷹地区をパレートした。

これに対して、地元自治会による愛鷹地区石油コンビナート絶対反対連合会が結成、
片浜地区でも小学校へ約2000人が集まり、富士石油進出反対総決起集会が
開催された。

9月13日、沼津市立第一小学校で石油コンビナート進出反対沼津市民総決起大会が
開かれ、三島市中郷地区の農民の耕運機30台、清水町民も加わって、
「みんなの力で公害に反対し美しい郷土沼津を守ろう」のスローガンのもとに
25,000人の大集会となった。
翌日、沼津市長は上京し、富士石油に対し自主撤回を申し入れ、
県知事にも同様の報告をした。
18日の市議会で500人の市民が見守る中、
市長は正式に富士石油の進出拒否を明確にし、
県知事も25日、県議会で石油コンビナート建設が不可能になった旨を述べた。
30日、沼津市議会は
「沼津市に進出しようとする全ての石油コンビナート各社の建設に一切反対する」
という決議を行った。

【清水町の動き】

コンビナート反対への動きとしては、まず、
1964年1月、商工会、PTAの一部、女性有志などが集まって、
清水町石油コンビナート進出対策研究会が発足。

バス2台で四日市の見学を行い、学習会を積極的に行う中で、
3月にコンビナート進出反対の態度を決め、
清水町石油コンビナート反対町民会議(以下、町民会議)と改称する。

誘致賛成への動きとしては、
農業の先行きに不安をもつ南部地区の農家が
土地をまとめて買い上げてくれる相手を待ち望む気持ちが強く、
1961年の第1次石油コンビナート計画の時点から住友化学との接触が
開始されており、土地の売買もすでに進められようとしていた。

そんな中、1964年1月21日、高田町長が辞意を表明、
2月23日の町長選挙で、農協組合長の関本嘉一郎氏が
反対派の石油コンビナート対策研究会会長を約1000票差で
破り当選した(投票率75.56%)。

この町長選挙の前日に、県は「公害の心配は全くない」という
『県民だより』特報を2市1町に新聞折込みで配布した。
通常自治会を通して配布されるが、新聞折込みで、
しかも清水町長選直前に配布されたことに疑問をもつ住民もあった。
さらに3月3日、『県民だより』特報第2回が配布されたが、
自治会長の中には配布を拒否する者も現れ、
町政の空白・混乱と相まって住民間にも重層的に対立が広がった。

3月21日、町民会議は石油コンビナート反対決議請願書を
5120人(有権者7300人)の署名と合わせて議会へ提出した。
議会は、これを受け、3月定例会の最終日、傍聴者50人が見守る中、
採択を行う。
出席議員19人中、誓願に賛成の者9名、反対の者9名で同数となったため、
最後に議長が加わり、議長が賛成に加わったため、議会としては
コンビナート進出に反対という議決になった。

この時期、県議会では知事が誘致に努力する旨の表明をし、
コンビナート建設は県政の重要課題とされた矢先に、
沼津・三島両市に先駆けて清水町議会が一票差で反対の議決をした
ということは、大きな波紋を呼ぶこととなった。
また、県の意向と地元住民の意向との狭間で、
4月29日、わずか2ヶ月で関本町長が辞表を提出、
また町政に空白ができる事態となる。

翌30日は、住友化学の用地買収問題が浮上し、
2市1町住民連絡協が住友化学沼津出張所へ500人、
的場区へ400人が集結する。

5月16日には、町民会議がコンビナート問題をより多くの町民に
提起すべきと、清水小学校校庭で約400人参加の清水町民大会
を開催し、高橋安正商工会代表らが決意表明を行い、
その後、町内をデモ行進をする。

5月31日、町議多数と商工農業者らが推す元議長の鈴木秀作氏が
無投票で当選する。
6月15日に議会で、3月21日の反対決議を再確認、住友化学に進出中止の
要請をすることを全員一致で決定した。

と、誘致反対への流れで固まるのかと思いきや、
7月3日、町の南部地区の地主を中心に、
誘致賛成の立場をとる清水町地域開発建設同盟が結成され、
工場建設に協力する旨の趣意書を配布、町議会議員8名を含む
約800人の賛同署名を集めた。
8月には富士石油、住友化学進出に関する特別委員会設置のための
臨時町議会がもたれるが、これに町民会議、地域開発同盟双方から
約200人が押しかけたため、沼津警察署から警官50名が出動する騒ぎとなった。

最終的には多数決で工場進出対策特別委員会の設置が決まった。

この特別委員会では、資料に基づく研究と同時に
町民各層に存在する対立意見や「声なき声」を聞き、
委員会としての結論を出していいこうと方針に決まった。

この町民公聴会の対象となる団体は次の通り。
婦人会、部農会、区長会、PTA、町民会議、建設同盟、
経営者・労働者(大東紡・臼井等)。

誘致反対の意見としては、
「亜硫酸ガスは現在の科学力では5分の1しか除去できない。
公害をなくすということができれば、八戸、四日市の公害の除去の後に
進出を実現させるべきだ」という区長会の意見など。

誘致賛成派の意見は
「付帯条件として公害が出ないこと、農家が転換期に直面していること」
が挙げられている。
誘致賛成の意見としては、主に公害を未然に防ぐことを条件に挙げているが、
誘致積極派の建設同盟は、
四日市だけでなく、公害の被害の少ない新居浜、岩国などのコンビナートも
考慮に入れるべきと主張している。

10月29日、定例町議会で、約300人の見守る中、町民会議からの
「コンビナート進出拒否の請願書」を署名とともに受理し、
特別委員会の委員長は
「コンビナートに代わる新地域開発を考慮する」
ことを発表し、出席議員(20名)は全会一致でこれに賛成した。

最後に町史は町議会の動きについてこうまとめている。
「紆余曲折はあったが、清水町議会としては全国的な開発熱のなかで国や県からの
強力な指導、日本を代表する大企業からの強い申し入れの一方で、
自治体として地域の発展と生活環境保護をどのように進めていくべきか、
町民各層からの意見を聞きながら、なんとか地域の特性に沿った方向性を
打ち出したといえるのではないか。」

さて、住友化学が進出する予定だった地域については、
その約3年後の1968(昭和43)年の1月、
(協)沼津卸商社センター創立総会開催され、
1970(昭和45)年8月造成工事開始、
1972(昭和47)年11月卸団地竣工式典挙行される。

とりあえず、コンビナート関連はここまで。
まだ書きたいことあるけど、また今度。
町史をじっくり読んだが、1回読んだだけではわからない。
何度も読み返した。

この1964年3月のコンビナート反対決議誓願の町議会1票差の
採択は、41年前の話だが、私が議員になってからも
語りぐさになる伝説の議決だ。

1964(昭和39)年といえば東京オリンピックの年だ。
10月10日〜24日に開催された日本初の世界大運動会も
清水町の町民からすれば、それどころじゃない?

もっと調べたいことも出てきた。
ちなみに町史を読んでいて明らかに年号とか違っている箇所があった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。


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